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童貫

童貫(どうかん、1054年 - 1126年)は、北宋末の政治家、軍人、宦官。字は道夫(どうふ)。開封の人。去勢され男性機能を失ったはずの宦官でありながら、筋骨隆々とした体躯で顎鬚まで生えていたという怪人物。

書画骨董の目利きであった事から、徽宗に気に入られ、宰相蔡京と結託して権勢を極め、また兵法にも凝っていたため禁軍の頂点に君臨し、二十年近く兵権を掌握した。しかし、徽宗の贅沢を助長させたため民衆からは怨嗟の対象とされ「六賊」の一人に挙げられた。また軍費を着服し私服を肥やしていたという。後の北宋末を舞台にした小説『水滸伝』でも四奸の一人とされ悪役になっている。

童貫は宦官ではあったが、軍人の道を選び、軍を率いて西夏やチベットと戦い大功を立て、以後 20 年に渡って兵権を掌握した。1111年には太尉、領枢密院にまで昇進し、その位階は三公に比肩した。

1120年、北宋は女真族の立てた新興国の金と結んで(海上の盟)、遼を挟撃し、遼の支配下にあった北方の燕雲十六州を奪還しようと試み、当時宋軍の総帥の地位にあった童貫自らが軍を率いてこれに当たった。

しかし軍事行動を起こそうとした矢先、江南で方臘の指導する大規模反乱が勃発した。童貫は燕雲十六州攻撃の為に編成した軍から十五万の南征軍を編成し自ら方臘の軍の鎮定に当った。方臘の抵抗は苛烈なもので、童貫は江南の住民数十万人を殺戮した末に、王淵麾下の将校の韓世忠の活躍などもあり1121年四月、方臘を捕えこれを処刑した。
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一方金軍の猛攻の前に遼の天祚帝は逃亡し、遼の将軍耶律大石等は逃亡した天祚帝を帝とは認めず耶律淳を擁立して燕雲十六州をもって北遼を建国する。

1122年童貫は二十万の大兵力を率いて北遼侵攻を開始した。燕京を守る耶律大石らの抵抗は頑強であり、初戦で童貫軍は国境線である白溝河にまで後退を余儀無くされ、隘路で追撃を受け大打撃を受けた。また時期は不明であるが怨軍を指揮していた郭薬師を寝返らせることに成功している。

同年6月24日、北遼の耶律淳が病死したので童貫は劉延慶に軍を指揮させ燕京奇襲を実行させた。劉延慶の奇襲は成功しかけ、耶律大石を燕京での市街戦にまで追い込んだがここでの耶律大石の抵抗は激烈で結局の劉延慶は敗走した。さらに童貫は北遼の宰相李処温と内通し、これを寝返らせることに成功したが、この諜略は耶律大石に露見し、李処温は耶律大石に処刑された。

万策尽きた童貫は自力での燕京攻略は不可能であると判断し、阿骨打に救援を依頼した。阿骨打は北方より三路から燕京を攻撃し、耶律大石は居庸関で抵抗を試みたが失敗し金軍に捕えられた。阿骨打は燕京の人や物資を略奪した上で事実上の空城を童貫に明け渡し多額の歳幣を宋に請求した。

その後、金に攻め込まれたときは太原に駐屯していたが敵前逃亡する失態を犯し、欽宗即位後、その責任を糾弾されて流罪、しかし途中でさらに死罪を賜り、私刑同然に殺された。

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2009年05月31日 10:16に投稿されたエントリーのページです。

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